無心


無心であることは、全ての存在の本来の姿である意識として在るということを意味する。無心の状態にあることを悟りと言う。こういった知識を得て無心になり、意識として在ることを実践すると、生と死を繰り返す人生から抜け出す解脱を果たす。

人間が言う「私」とは自我のこと。自我の性質の一つは欲望で、自分を大きく見せたい、特別でありたい、独占したい、もっとほしい、他人に負けたくないなど。その他にも、恐れ、怒り、劣等感、みじめさ、悲しさ、差別、派閥、競争心、見下す、執着心なども自我の性質で苦しみを生み出す。自我は常に他者より「私」を優先して考える。

この自我は思考があることで生じる。自我とは思考のこと。思考は過去の記憶や未来の予測から生じる。その中には不安や怒り、期待などが含まれる。人間はこの思考を、自分の個性としても認識している。

不安や怒り、喜びなどの思考は突発的に起こる。それは自分で確かめることができる。まず額(ひたい)の裏の思考が浮かぶ空間に意識を向けてみる。すると一点集中しているので思考が止む。これを数十秒続けていると、突如思考が現れ、無心ではなくなる。これが思考の性質でもある。つまり人間は、無意識のうちに突然現れる思考に振り回され、怒ったり不安になったりする。この思考の性質を知り、いつも無心であるように気をつけていると、それがクセづいてきて穏やかな心が維持される。

戦国時代の争いも、爆弾を使った戦争で世界中の国が戦いあったことも、経済社会で企業が競争し合うのも、すべて人間の「私」である自我が行ってきたもの。人間の歴史は争いの歴史で、自我はいつも争っている。獲得によって得られる喜びは束の間で、すぐに飢え渇きとなって苦しみとなる。つまり無心になって自我を克服する人が増えるほど穏やかな人が増え、世界に本当の穏やかさ、平和が訪れる。

次に紹介するのは無心について述べている本。無心について多角的な視点で学ぶことで、理解をより深めることになる。そして知識は実践することで身に付く。

・ウパデーシャ・サーハスリー / シャンカラ

「生と死の川の中に落ちたものは、知識以外の何者によっても、そこから自分自身を救うことはできない。」

「虚空(こくう)のような、無身の境地が、充分に研究された聖典と推論にしたがって述べられた。もし人が、『私の』『私』というこの観念をすっかり捨てて、この境地に対して確信を持つにいたれば、解脱する。」

 

・ウパニシャッド

知識の五つの器官が意(い"心")とともに静止するとき、理性もまた動かないとき、それを人々は最高の状態と呼ぶ。感官を動かさず静止させることがヨーガであると、かれらは理解する。そのとき、人は心を集中しうる。ヨーガとは実に起源であり、没入である。それは、言葉によっても、意思によっても、また眼によっても、得ることはできない。『それは存在する』という以外に、どうしてそれが理解されよう。」

・覚醒の炎 プンジャジの教え

「『私は身体だ』と考える代わりに『私は意識だ』と自分に言いなさい。この二つのうち一つを選びなさい。そのどちらであなたは人生を生きるのか?自我か、意識か?人生においてあらゆることを行うには、意識が必要とされる。あなたは自我が人生をとりしきり、自我が決定したことを行動に移すと考えている。これが無知と呼ばれるものだ。」


意識が命令するままに身体を行為させなさい。あなたは単なる道具でしかないことを知りなさい。もし『身体は私のものだ』などと主張せず、意識の中で意識として生きるなら、あなたは本当に自由な生を生きることだろう。
 

・現代人のためのヨーガ・スートラ / グレゴール・メーレ
ヨーガとは、心のはたらきを止滅することである。その時、見る者は本来の姿にとどまる。」

・菜根譚 / 洪 自誠

「器は水を一ぱいに満たすと覆(くつがえ)り、撲満(貯金箱のようなもの)は中が空である間はその全形を保っている。故に君子というものは、心は無心の境地においても、物欲に満ちた有心の境におかない方がよく、身は不足がちの境遇におっても、満ち足りた境遇におらない方がよい。」
 

・さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる / エックハルト・トール 

音よりも『沈黙』に意識を集中させましょう。外界の『沈黙』を意識することが、内面に静けさをもたらすからです。思考はぴたりと活動を止めます。すると入口が開きます。

・信心銘(しんじんめい) 

・ニュー・アース 意識が変わる 世界が変わる/エックハルト・トール

人生で出会う静寂に意識的になると、自分自身のなかの形も時間もない次元、思考やエゴを超えた部分と触れ合うことができる。それは自然界に充満している静寂かもしれず、早朝の自室に広がる静寂、あるいは音がふと途絶えたときの静寂かもしれない。静寂には形はない。だから思考を通じて静寂に気づくことはできない。思考は形だ。静寂に気づくとは、静かに停止しているということだ。静かに停止しているとは、思考抜きの意識でいることだ。静かに停止しているときほど、深い本質的な自分自身でいるときはない。静かに停止しているとき、あなたは一時的に個人という心理的、精神的な形をとる前の自分になる。静かに停止しているとき、あなたは一時的な存在を超えた存在になる。無条件の、形のない、永遠の意識になる。

・パイドン / プラトン

「魂は、なにかを考察する際に、視覚なり、聴覚なり、なにか他の感覚なりを通して、肉体の助けを借りる場合、(というのは、感覚を通してなにかを考察するということは、肉体を通して考察することに他ならないのだから)その時、魂は肉体によって一時も同じ有り方を保たないものの方へと引きずり込まれ、それ自身が彷徨い、混乱し、酔ったようになって目眩(めまい)を覚えるのだ。

(中略)

だが、魂が自分自身だけで考察する時には、魂は、かなたの世界へと、すなわち、純粋で、永遠で、不死で、同じように有るものの方へと、赴くのである。そして、魂はそのようなものと親族なのだから、魂が純粋に自分自身だけになり、また、なりうる場合には、常にそのようなものと関わり、さまようことを止め、かの永遠的なものと関わりながら、いつも恒常的な同一の有り方を保つのである。なぜなら、魂はそういうものに触れるからである。そして、魂のこの状態こそが知恵(フロネーシス)と呼ばれるのではないか」


・バガヴァッド・ギーター

「海に水が流れこむ時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。欲望を求める者はそれに達しない。すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。」

・ブッダのことば -スッタニパータ-

「ウダヤよ。愛欲と憂(うれ)いとの両者を捨てて去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨(かいこん)をやめること、平静な心がまえと念(おも)いの清らかさ、それらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたしは説く。」


「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が止滅するのである。」


 

・ブッダの真理のことば・感興のことば

思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。


来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。それが苦しみの終滅であると説かれる。水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。


そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。」


 

・ラマナ・マハルシとの対話

 「瞑想とは一つの想念だけを想い続けることです。その一つの想念が他のすべての想念を遠ざけます。心の散漫は精神力の弱さの兆候です。たゆみなく瞑想を続けることによって心は力を得ていきます。つまり移り変わりやすい心の弱さが、その背後にある恒久的な無心状態に場を明け渡すのです。この無心の広がりが真我です。純粋な心が真我なのです。

・臨済録

『汝がもし聖(知徳にすぐれ、尊敬される人)を愛し凡(普通。ありふれた)を憎んだならば、永遠に迷いの海に浮き沈みするであろう。煩悩は心によって生じる。無心であれば煩悩の拘束もない。姿かたちを弁別(区別すること)する要もなく、するりと一発で道を体得できる』わけだ。

・老子

「心をできるかぎり空虚にし、しっかりと静かな気持ちを守っていく。すると、万物は、あまねく生成変化しているが、わたしには、それらが道に復帰するさまが見てとれる。そもそも、万物はさかんに生成の活動をしながら、それぞれその根元に復帰するのだ。」
 

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