自我から意識へ


意識

意識とは静寂であり、調和であり、洗練であり、美しさであり、愛情であり、優しさであり、心地よさであり、喜びであり、平和であり、純粋であり、無邪気であり、無心であり、直感であり、ひらめきであり、好奇心であり、洞察であり、気づきであり、智恵であり、成長であり、普遍であり、永遠であり、全能であり、すべてであり、すべてを知り、すべてを受け入れ、すべてを包み込み、器が大きく、自由で、囚(とら)われがなく、善悪もなく、区別もなく、始まりも終わりもなく、時間もなく、色も形も匂いもなく、宇宙が誕生する前からあり、人間の意識のことであり、唯一であり、命であり、魂であり、宇宙や物質や自我という幻想をも含み、存在するしないを含み、何もないがすべてを含む。

言葉の説明では意識を完全に理解することはできない。ただ意識として在ること。

意識として在るために、次のことを行ってみる。目をつぶってゆっくり鼻から息を吸い、口から吐く。この呼吸に意識を向けてみる。呼吸に意識を向けていると、思考を意図的に止めることができ、その間は無心になる。その時、頭の中には意識だけが残るので、その意識を意識する。意識に気づくとも言う。その時、思考はないので欲望も苦しみもなく、「私」という自我もない。自我とは思考のこと。こうして常に意識に気づき、意識として在る。

呼吸に意識を向けるだけでなく、運動や芸術でも1つの取り組みに集中していると無心になる。睡眠と同じように無心になる行為を人は心地よく感じ、喜ぶ。意識とは心地よさや喜びのことでもある。ここでいう喜びとは、最高に幸せという一時的で極端な感情のことではない。

この宇宙が誕生する以前にあったのはこの意識。それは人間や生命が持つ意識のことでもある。生命だけではなく石や水、空気、あらゆる物質は意識の現れ。この意識はすべてつながった唯一のもの。

「私」という自我は、意識内に現れる思考が作り出した幻想。意識のみがこの世にあり、それがすべての生命の根源的な姿。心も体も自我も思考による幻想。

生まれたての赤ん坊は、脳が充分に発達していないので思考力がない。だから常に無心の状態にある。そこから成長していく中で、脳も発達し思考力が高まっていく。それとともに「私」という自我が芽生え、「私」の損得を考えて動き、意識は意識として在る状態から離れていく。そして喜びや苦しみという人生経験を何度も経て、再び意識として在る状態へ戻っていく。意識が意識と離れた自我から意識を体験する。これが人間や宇宙を通して行われている。

無心になり意識として在ることを続けていると、突発的に思考が起こる。この思考は過去の記憶から来る。それは欲望や怒り、将来への不安であったりする。この思考は感情を生み出し、その感情は次の思考を生み出し、また次の感情へと続いていく。負の思考は負の感情を生み出す。これに気づいて意図的に無心になり、この連鎖を止める。

負の思考は負の感情を生み、それがストレスとなり、病気という形で体や心に症状が現れる。生まれつき性格が前向きな人や後ろ向きな人がいるが、どちらも突発的に思考が起こる。よって意識として在り、囚われのない状態を維持する。

意識に意識的でなかった場合、突発的に起こる思考に無意識になり、それに振り回される。楽しい思い出もつらい思い出も、場合によっては記憶の深いところに刻まれ、本人に影響を与える。本人は思考に振り回されていることに気づいていない。そしてそこからくる言動は性格となる。例えば、楽しい思い出が多い人は前向きな言動が多くなり、暗い思い出が多い人は考え方が後ろ向きになるなど。つまり突発的な思考に無意識ということは、本人も忘れているような過去の記憶が日々の言動に影響を与えているということ。そして性格の良い人や悪い人、欲の強い人や弱い人、積極的な人や消極的な人などにつながる。

人間は誰もが何かに苦しんでいる。仕事があってもなくても、お金があってもなくても、有名であってもなくても、友達がいてもいなくても、何かに苦しんでいる。それは「私」という自我があるため。無心となり思考がないとき、「私」がないので苦しみは消える。いつもこれを意識していると、無心が習慣化されてくる。意識的でない時、思考が感情と言動を支配する。この内面での無心か思考かの2つの分かれ道が、人生を穏やかか苦しみのあるものにするかどうかを分ける。

人種、性別、宗教、能力、地位、資産などが人間の優劣を示すのではない。これらは「私」という自我の視点から見た、大きい小さい、多い少ない、優れている劣っている、有名無名という表面的な尺度。一方、意識として在るは、その人がどれだけ自我に振り回されず無心としてとどまれているかという段階があるだけで、優劣はない。社会的には立派な肩書きがあったとしても自我に振り回されている人もいたり、物をまったく持っていないが無心として在り続けている人もいる。

1日の中でどれだけ意識的に無心になれたかが、その進度を表す。

物を得ることも、どこかに旅することも、能力が高いことも、評価が高くなることも、どれも一時的な喜びと苦しみを生み出し、無意識な人生はこれを繰り返す。これに気づいたなら無心に取り組みやすくなる。

全ての人間は最終的に意識として在る状態に行き着く。それまでは得たり失ったり、喜んだり悲しんだりを繰り返す。これらは悪いわけではない。良い悪いを区別するのも思考。無心はそれに囚われない。

無心が習慣化されてくると突発的な思考に気づきやすくなり、自然と無心に戻ろうとするようになる。

マラソンでは早くゴールする人もいれば、遅くても走り切ることを目的にする人もいる。その誰もが最後は同じゴールにたどり着く。人間も同じで、誰もが最終的に同じ根源の意識へたどり着く。どんなに遅く走る人であっても。

自我は「私」が失われることや傷つくことを恐れる。だから死を恐れる。意識として在ると死を恐れる思考がなく、死という概念すらもない。また早すぎる死は悪く、長生きすることが良いという考えもない。自我は生死に執着する。無心としてある時、誕生もなければ死という考えもない。つまり意識に誕生も死もない。今までずっとそこにあり続けている意識、それが人間の根源的な姿。

人間はそもそも意識なので、無心になって新たに意識になるのでも得るのでもない。ただずっとそこにあったそれについて知らず、無知ということ。そのかわり自我という思考が前面に出て、人間はその思考を「私」だと思い込んでいる。

若い時、どれだけ粗野で暴力的な者でも、年齢とともに丸く穏やかになるということがある。そう考えると人間は全体として悪から善、騒がしさから落ち着きへ、粗野から洗練と向かっている。これは誰もが自我を認識して思考に振り回されなくなり、意識として在る状態へと行き着くということ。つまり自我から意識へという方向。それがこの人生で起こるのか、それとも後の人生で起こるのかの違い。

人生で起こる出来事や経験はすべて、根源である意識に戻って行く道。

無心に取り組むために、苦行や断食は必要ない。

意識として在るとは完璧になることではない。

意識としてあると思考がないので、自分が完全であることも不完全であることも気にすることがない。

思考が止まらなくても気にしない。止める努力も一つの執着で苦しみ。思考が起こればただ気づき、無心になる。

意識として在ることに取り組んでも、瞬間的に怒りや恐れを抱くことがある。ただその思考や感情が幻想であることにすぐ気づき、囚われず、それが消えていくのを静かに眺める。

人間は幸せを求めるが、言葉上の幸せには2種類ある。1つは、一時的に盛り上がる嬉しい楽しいという感情。もう1つは心を乱す思考がない穏やかさ。体より外側に幸せを求める時、物や名声など何かを得る喜びは一時的で終わる。体より内側の意識に気づく時、無心になるので穏やかさという幸せに出会う。

無心になるとは、最高に幸せな感情になるということではない。囚われがなく穏やかで普通な状態。

自分にとって最高の何かを手にした時、大きな喜びに包まれる。それを失った時、失望も大きくなる。一時的な喜びと苦しみは表裏一体。

意識として在るということを知り、それを実践していたとする。それでも日常生活の中で何かに執着心を感じているなら、記憶から来る思い込みが顔を出した瞬間だと気づける。気づくことで、その思いグセに振り回されなくなってくる。

自我は成績など数字にも執着する。

物質的なものに価値を感じていると、失敗は損で、成功は得に感じる。経験に価値を感じているなら、成功も失敗もどちらも有意義な体験。意識として在るなら、失敗も成功もなく、ただ出来事が起こっている。

無心になると何かを得たいという欲望も消える。

性欲が起こっても無心になると消えていく。

所有するものが多くても少なくても、それへの執着がなければ心は軽い。

無欲に勝る心の軽さはない。

無欲に勝る強さはない。

無心になると、意味を考えることもなくなる。すると人生の意味というものはなくなる。人生の意味を考えるのは思考であり自我。

人生に意味はないのだから、しなければならないこともない。

思考がない状態に探求はない。それは人生の探求の終わり。生と死の終わり。人間の終わり。

無欲になっても新たな人との出会いはあり、何かを作り出したりと行動も起こる。それは直感として起こる。

無心を維持すると心や言動が穏やかになり、性格も落ち着いてくる。すると日常の問題が減ってくる。

落ち着いた人がいると、周りも落ち着いてくる。落ち着いた人と話すと、怒ってる人も落ち着いてくる。落ち着きは物事を解決へと向かわせる。怒ってる人に怒り返すとお互い怒りが増大し、決裂へと向かう。落ち着きには不安や焦り、怒りという思考がなく、それは意識として在る状態。つまり調和する意識が主で、自我がそれに連なるもの。

意識として在る時に思考はなく、区別するということもない。よって性別、問題、争い、分離、葛藤はない。また理解するということもない。何かが起こっても、ただそれが起こっているだけ。それは無関心という意味ではなく、見ている状態。

無心であることが世界の平和につながる。自我に振り回されると争いが生まれる。無心が平和で、自我が争い。

無心の時間が増えてくると、勝ち負けという競争に興味がなくなってくる。勝って優越感、負けて悔しさ惨めさを感じるのは自我。

意識として在るというのは、思考がなく素直で純粋な状態。つまり邪気がなく無邪気。だから子供は愛らしく、言動も好まれる。大人でもそういう人はいる。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感以外の感知能力である第六感とは心眼のことであり、無心で意識として在る状態。だから直感的にものごとの本質に気づくことができる。意識とは洞察力のこと。

何をしていても発想や成長するには、見て分析して取り入れることが必要になる。その際に新しい要素に気づくには洞察力がいる。それは頭の中に浮かぶひらめきに気づくこと。洞察力は無心の時に浮かぶ直感。反対に固定観念という思考が強かったり多かったりすると、それが障害物となって直感が入る隙間を消す。

目から入ってくる情報は中性。目の前で事故が起こっていても、ただ出来事が起こっている。この情報を思考で判断しだすと、良い悪い、嬉しい悲しいが出てくる。この情報を無心で見ると、その入ってくる情報に対して意識は直感という形で応じ、言動が起こる。時には無反応や沈黙という時もある。

お手玉で落ちてくるボールを手でキャッチする時、目をつぶってでは難しい。普通は視野の中心でボールを見てキャッチする。この中心視野の周りには、景色がぼやけて見える周辺視野がある。お手玉くらいの距離感であれば、周辺視野でボールを見てもキャッチすることができる。サッカーをしても周辺視野に入ってきた相手選手に気づいて、その裏をつくプレーが直感的に浮かんだりする。つまり周辺視野の情報は、物事を判断する上で大きな部分を占めている。無心であれば、意識は中心視野と周辺視野の両方から情報を得て、直感で応じる。

反復すると考えなくても体が動くようになる。するとその技術は直感によって自然に使われる。体が覚えていない技術は思考しながら行うため遅く、直感的にならない。直感は瞬時に表現されるため、思考がなく速い。

足の指をどこかにぶつけて痛い思いをすることがある。これは痛いという思考で苦しんでいる状態。こういう時も無心になり、痛みを客観視する。無心になっても体の痛みは消えないが、心で感じる痛み苦しみは消え、必要以上に苦しまない。体の感覚に苦しんだり楽しんだりするのも思考であり自我。

同じ人と何年も過ごしていると色々な性格が見えてくるが、初対面の時に感じた相手の第一印象は、何年経っても変わらないということがある。初めての出会いは相手に対して先入観がないので、思考に邪魔されず、目から入ってきた情報を無心で見ることができる。その時、意識である洞察力によって相手のありのままに気づく。だから第一印象というのは、記憶に邪魔される前のその人の素の性格が見えている。

性格がとても良い人は、誰が見ても一瞬ですぐにわかる。ちょっとした仕草でも性格の良さを感じさせる。性格が良いか悪いか迷うということは、そこまでではないということ。

意識として在ることが当たり前になるほど、日々の言動に優しさや思いやり、調和といったものが自然なものとなってくる。

全体の善を考えて日々行動している人は、誰からも信頼される。全体の善を考えるのは愛情でもある意識の性質。

自分の周囲の状況は自分の心の反映となっている。自分を優先する人は周りに敵が増え、生きづらくなる。全体の善を思い行動する人は、周りも友好的になり平和になる。

無心を維持し内面が平和な人は、誰かの陰口や噂話も言わず、批判や攻撃されても仕返しせず、黙って耐える。もしくは気にせず、それが過ぎていくのを見守っている。

内面が平和になると、その人と接する人々も安心して平和になる。内面の平和は、欲望や分離を生み出す思考から自由になっている状態。

「この人は苦手だ」と思っていると、雰囲気で相手に伝わっている。誰かへの苦手意識や敵意も過去の記憶からくる思考。その思考は次の言動となって現れる。好きになる必要はないが、無心になって相手に嫌な気分を感じさせないことが、人間関係を悪化させない鍵。

社会で意識として在ることに取り組む人が増えるほど、肉食をする人も減ってくる。動物の意識も人間の意識もすべてつながっていて唯一のもの。それを知る人が増えてくると、自分と同じ存在の動物を苦しめるより、慈しむ気持ちが強くなる。よってわざわざ殺して食べようとは自然に思わなくなる。ただ絶対食べないというのも執着で、基本食べないが食べる食べないに特にこだわらない。

生活する中で、頭で考えて打開できない状況に陥った時は前向きにあきらめて脱力し、無心になって成り行きに任せる。すると邪魔していた思考が消え、直感が入り込む隙間ができ、解決案が見えてくる。

意識に任せ直感に従うと、目の前の難しい問題が完全に解決できなくても、それが布石となり別のタイミングで改善されることもある。

故意に何かをして動くより、成り行きに任せて生きると物事のタイミングが合いだし、スムーズに事が流れるということを体験する。それに慣れてくると困った時も慌てなくなる。

無心が習慣化されてくると、苦難に出会っても苦難と思わなくなる。

するかしないか迷った時や判断に迫られた時は、いったん立ち止まって無心になる。進むのが自然に感じるなら進む、退くのが自然なら退く。進むべき直感の時は迷わず進む決心ができ、進まない判断ができた場合はそこまでの衝動ではなかったということ。ただいったんしないと決めても、やはりその衝動は抑えられず結局するということもある。

意識として在り、純粋な衝動に従って成り行き任せに人生を進んでいくと、理由はわからないが何か物を作り始めたり、新しいことを始めたりすることがある。何回かそういう経験をすると、人生の大きな流れがうっすら見えてきて、次への準備が起きていると思えることがある。こうして無心になると、自ずと進むべき道が見えてくる。これが普通になってくると、欲望による行動ではなく、人生は直感に従った一本道ということを実感する。

心を静かにして人生を観察していると、どんな些細なことも人生で起こることはすべて起こるべくして起こっていると思えてくる。そう思わない段階では偶然に思える。

無心の時、理解するという感覚はない。思考する時、理解できたと理解できないがある。思考で考えると二極化する。良い悪い、あるなし、好き嫌いなど。意識のなかに物質化した宇宙が広がる。意識は物質ではないが、物質である宇宙をも含む。意識として在る時に良い悪いはないが、その両方をも含んでいる。この観点で見ると、意識として在る時は人生に意味や目的はないが、意味や目的があるも含む。意味や目的を持つのが思考。思考では、自我に振り回された人間が意識という根源へ帰っていくことが目的だと理解でき、意識からすると帰っていくことが理由もなくただ起こる。

人が意識として在ることへ取り組むきっかけの一つに、自然とその探究心が起こるということがある。他には、突然衝撃的な出来事が起こるということがある。それは絶望であったり、何か大事なものを失うなどの苦しみであったりもする。もし人生で予期せぬ巨大な苦しみに直面しても、それは根源的な意識に気づくきっかけだったと後に理解できる。病気は身体が発する危険信号で、生活などを見直す機会になる。人生の苦しみも同様に、その原因である思考も幻想で、本来の姿の意識に気づかせるきっかけとなる。

長期間苦しむ経験をすると、苦しむのが嫌になる瞬間が訪れる。その時、無心について知ると後戻りしなくなる。

意識として在り、無心について真剣に取り組んでいると、体に異変が起こることがある。例えば動悸や失神、原因不明の体調不良など。病院で診てもらっても、原因がわからないということがある。この時、不安な気持ちになるが、その感情に振り回されず冷静に観察し、無心を維持する。その期間は人それぞれ。この継続が無心をより当たり前の状態にする。これは習慣化される一つ前の段階。体への不安は、この一時的な体が自分であるという自我の誤った認識と執着から来る。それに気づく。

継続の結果、無心が習慣化されてくると、その状況に適した言動が自然と起こる。意識がその人を動かす。もしくは意識がその人を通じて動く。つまり自我による欲望からではなく、その状況に調和した言動が直感的に起こる。また意識が動かすとは、全体の善について取り組むことでもある。

意識として在ることは、本質であり直感であり洞察でもある。だから無心でいると色々なことに気づく。その中には世の中の法則への気づきなど。時代とともに移り変わる流行ではなく、世の中の変わらぬ法則に気づきやすくなる。それは本人を賢くする。意識として在る時間が長いほど囚われと固定観念が薄まっていき、物事を深くみる洞察力が働き、智慧も身に付く。反対に暇つぶしにテレビや携帯電話を見る時間が長くなると、意識として在る状態から離れ、思慮深さや賢さからは遠のく。

世の中の表面上の流行りは変化し続けるが、根源的な意識は永遠と変わらない。

意識だけが唯一のもので、この物質的宇宙も死後の世界も本質的ではなく幻想。この幻想は自我にとっては存在するもの。

意識があえて自我という意識から分離した状態を経験し、再び意識を意識してそこへ帰っていく。そう考えると紀元前600万年頃にチンパンジーから分岐した人間の進化も必然と思えてくる。チンパンジーに人間のような思考力や理解力はないが、人間は分岐後、脳が大きくなり、思考力も高まり、当初はまだ比較的薄かった自我もやがて強くなる。悪巧みを考える思考力も高まったが、愛情などの感情も理解できるようになった。地球上の生物の中で思考力を持つ人間は自我を理解し、他の生物よりも意識に帰ることに近づいた種と言える。つまり思考して意識を理解できる生物が生まれてくるのは、生命の進化の必然と言える。

意識は直感と関係している。直感は無心の時、意識からやってくる。人間は直感に気づく。直感は全体と調和する。反対に自我による思考はそれを邪魔する。植物や動物に思考力はないが意識はある。つまり意識として在り、直感がいつも流れ込んでいる。よって直感に従うこれらの生き物はその動きも調和し、複雑な生態系も自然にバランスをとって全体と調和する。

意識は表情もなく返事もしない。ただ直感という形のないものや出来事で人間を動かす。人間はそれらを脳で解釈し、体を使って表現する。

「体が自然に動いたため、このような素晴らしい結果が出せた」と言う芸術家やアスリートがいる。それは意識がその人を使うため。そのアイデアは直感としてやってくる。

スポーツで言われるゾーンやフローという状態は意識として強く在る状態で、無心の時。よって邪念も恐れもなく、直感に身を任せた質の高いプレーが起こる。

幼少期にスポーツを習い始めたという子供でも、後に都道府県以上の代表に選ばれる才能の選手は、始めから動きや判断力がある程度洗練されていることがある。そして13歳くらいになると、大人と同じ動きをする。つまり直感とは洗練されているものであり、あとはそれを表現する身体技術が反復されて高まるほど、表現の質が高まる。直感は意識からやってくる。つまり洗練というのは意識そのものの現れ。そう考えると、例えば魚が群れをなす動きや、鳥の群れがV字になって飛ぶ動きも、エネルギーの節約という実用的な面と、美しいという両面がある。質が高く洗練された動きを、思考しない動物は直感的に行なっている。それを人間の思考から見ると調和や美しさだが。思考のない動植物からすると、ただ行っている。

調和や質の高い動きは起こるもの。それは直感に従う時。我欲からの思考では作り出せない。

相性の良い人と旅行に行くと、口で話さなくてもあそこに行きたい、このタイミングで、などが直感的に合うことがある。またバスケットボールやサッカーなど集団スポーツの試合を見ていると、素晴らしいゴールの前には、質の高いパスワークを見られることがある。それは複数人が連携して行われる。質の高いプレーは直感に従う時に現れる。そう考えると直感というのは瞬時に複数人にやってきて、集団行動を調和させる。これは個人個人が別の意識を持っているのではなく、意識そのものが一つで、つながっていることを示す現れの一つと言える。

絵を描くことが得意だと、次に描く線が見えるということがある。サッカーをする人の中には、パスコースやドリブルのコースが白い線で見えるという人もいる。企画を仕事にする人の中には、モヤモヤとした雲のようなアイデアのかたまりがぼんやり見え、それを時間をかけて眺めているとアイデアとしてまとまってくる、という人もいる。こういう時は邪念がなく、無心の時に現れる現象。言い換えると心の目、心眼で見ている状態で、意識として在る状態。得意なことをしている時に見える現象で、直感の現れ。この見える線に従うと高いパフォーマンスが発揮される。

何かに興味を持っていたりすると、道を歩いていてもそれに関連する文字や広告などが浮かび上がって見えたり、そこだけ明るく見えたりすることがある。それは次につながるきっかけ。その時も心眼で見ている。

スポーツをしていると自分や他人の質の高い美しいプレーを見て、スローモーションのように時間が遅く流れる瞬間を経験することがある。そのプレーを見ている瞬間、無心になっている。無心で起こったプレーを無心で見ている。人間は質の高いものを見た瞬間、思考が止まることがある。

また衝撃的な出来事や事故を見た時や体験した時も、スローモーションで見えることがある。その一瞬思考が止まり、瞬間的に高い集中力でそれを観察している。これも無心になっている。

静かな音楽を聴く、散歩する、味づけの薄い料理を食べるなど、刺激の少ない行為は意識として在る状態を維持しやすい。反対に刺激的なことは過剰な感覚に心が奪われる。騒がしさや大きな音、情報量の多いもの、暑い寒い、辛い甘いなど。

子供がいて騒がしいというような生活にも、無心になれる瞬間は数多くある。

無心になるために人付き合いを避けるのは自我。1人になる時間は大切だが、人との会話の中で思考に注意する訓練もできる。森や山で修行する必要はなく、俗世間でも行える。

直感や閃きは、真面目に継続的に取り組んでいると恵まれやすくなる。ある期間それが連続してやってくる。反対に独善的になるとやってこなくなる。欲による思考が邪魔をして、直感の入る隙間がなくなる。

背筋を伸ばすと直感が冴える。

直感は質が高く調和する。それに従うと人間は最大能力が発揮される。取り組む事柄によって知能が必要だったり、そこまで必要なかったりと分かれるが、机に向かってする勉強は苦手でも、スポーツが得意な人は運動に関する直感に恵まれる。反対に運動は苦手でも、数学に関する直感に恵まれる人もいる。科学者になる人は知能の高さも必要だが、それだけではなく、その事柄に興味があって向いていなければ直感はあまりやってこない。

意識として在ることに取り組むと、新しい能力が開花することがある。

好奇心と直感、言葉上は違うものだが、「自分はこれに興味がある」と気づくという観点では好奇心も直感。つまり好奇心に従って進むというのは、意識が指し示す方向。それはその人にとって能力が発揮される道であったり、人生経験として必要なことであったりする。

好奇心は子供がかくれんぼするように純粋な興味。興味が出た瞬間、背後にお金が見えたり自己利益が見えると欲望だったということがある。

人間は貧困の危機に直面すると、好奇心に従うのが難しくなる。

天職・適職は趣味の領域で見つかることが多い。そのためには好奇心に従うことが良い。趣味はやらされるものではなく、お金を払ってでもしたいこと。

天職・適職に取り組んでいる人に、それをやめさせるのは難しい。周囲がやめろと言っても聞かない。それぐらい意思も強くなる。

天職・適職はその行為が自分に合っているため没頭できる。その時は無心になっていて直感にも恵まれる。だからそれをしていることが楽しい。

才能がある事は、その人が好きなこと。

好きなことをしている人にとって努力しているという言葉は適切ではない。楽しいから無心に夢中で取り組んでいるだけ。

好きなことをしている人にとって、人生はあっという間に過ぎる。嫌なことをしている人にとって人生は長い。

天職・適職に取り組むと使命感を感じることがある。すると苦難に立ち向かう強さも出てくる。

天職に取り組んでいても、芽が出ない期間がある。それがどれだけ長期間になっても、天職であればあきらめることがない。なぜならその瞬間に起こる直感的な衝動に従うため、それをすることに充実感や喜びを感じ、見返りを求めていない。よって失望することもやる気を失うこともない。反対に見返りを求める欲があると、芽が出なければどこかで打ちひしがれる。

楽しい勉強と楽しくない勉強がある。前者は好奇心に従って取り組んでいる時、後者はやりたくないことをやっている時。前者は自発的に学べ記憶にも残りやすいが、後者はその逆。

人は好きなことをしている自分が好きで、そういう時は積極性も出て、友達もできやすく、撮る写真の枚数も増える。

人間は得意分野になると頭の回転が速くなり、よくひらめくようになる。反対に合ってないことをすると頭の回転も遅くなる。

シャワーを浴びる瞬間は無心になり、アイデアがひらめきやすい。

人と話している時に宅急便が届く、考えごとをしていて急にトイレに行きたくなるなど、そういう何気ないタイミングが物事のやめるタイミングであったり、瞬間的に無心になって違うアイデアが浮かぶ瞬間であったりする。

朝の寝起きは頭に雑音がないので、考える作業はその時間帯が適している。反対に夜は昼間の雑音で頭が疲れていて、集中力が低下する。

朝や昼寝でも起床後はアイデアが浮かびやすいので、寝る前に問題を考えておく。すると睡眠中に頭が整理されている。

直感によるひらめきやアイデアは夢のようにすぐ忘れる。その場ですぐメモするようにした方が良い。

無心でモノを作っていると、もうすることがないというタイミングが直感としてやってくる。それがその時の完成の瞬間。ただ翌日見ると、新たにすることが見えることもある。

思考は2つのことを同時に考えることはできない。その瞬間に最大限の能力を発揮しようとするなら、1つのことに集中する。

無心になって作業していても思考は使っている。ただ思考に過剰依存して創作すると古い物が生まれる。それは直感的ではなく過去の記憶で作るため。すると作っている途中で退屈になり、やめたくなる。

どんな人も今置かれている状況は、その人にとってするべきことや学ぶべきことが込められている。その時すでにそれを認識している人もいれば、後で気づく人もいる。全く気づかず似た状況を何回も繰り返す人もいる。自我への囚われが強いと不満が多くなり、現状を直視しない。囚われが薄くなるほど、その状況が自分に何を気づかせようとしているのかという視点で見るようになる。

人生の扉が閉まることがある。それは意識からもたらされた学びの期間。すると外部に発展していくことはなく、その扉を自分で開けることはできない。その時にできることはそれが自然に開くまで待つことと、開いた時のために準備しておくこと。

新たな環境での第一印象が「とんでもない場所に来た。ここは自分のいるところではない」という時、そしてすぐにその状況から抜け出せる状態ではない時、その後、精神面などで大きな成長につながる期間になることがある。

上手くできずに途中で辞めることを逃げと考えてしまう人は、成功か失敗かの思考に囚われている。だから新しいことに挑戦する時に、一歩踏み出しにくくなる。自我は自信喪失や自分のプライドが傷つくことを恐れる。そういう時は、それが自分に合っているかどうか一度実験的に試してみる。そうすれば、それが合わなくても実験結果が出たのだから途中で辞めやすくなる。いつか合ったものが見つかれば辞める方が難しくなり、能力は自然と発揮される。

継続する、あきらめるも思考。好奇心に従う時、直感、衝動、やる気が自然と内側からやってくる。直感に従っていると自然に継続できる。

人が持つ善悪の基準は、過去の記憶や文化的背景などで異なる。人を助けること一つを見ても、ありがた迷惑ということもある。無心になり自然と起こる行為に、本質的な善意がある。

誰かを好きになり相手のことを思って行動する時、それを愛や愛情と呼ぶことがある。それが少しでも見返りを求めるものであれば、見返りがなかった時に落胆や失望が待っている。それは愛情に見せかけた我欲であったり、愛情の中に我欲が混ざっていたり。反対に見返りがなくても与え続けられるのが純粋な愛情。例えば親が子を育てるような。無欲の行動は愛情そのもので、裏切られても怒りはない。反対に自我は損得を考える思考でもある。つまり愛情や愛とは意識からやってくる直感的行動で、意識そのもの。意識でできているこの世界も愛情でできている。

人間は人生経験を通じて、初心者から熟練者へ、未熟から成熟へ、粗野から洗練へ、暴力から非暴力へ、混乱から調和へ、争いから平和へ、思考から無心へ、自我から意識へ、と成長していく。成長も意識の性質。



自我


「私」である自我は思考。自我は無心にはなれない。

思考に振り回されないためには、自我について知ることが必要。

思考には2種類ある。一つは無意識に突発的に浮かぶ思考。もう一つは計画など意図的にする思考。前者は過去の記憶や未来への予測から来る不安、怒り、後悔、劣等感、欲望などで、すぐに消える思考もあれば、脳内を強く占拠してとどまる思考もある。

思考の大部分は、過去の記憶が再上映されるもの。

人間として生まれてくるということは、誰もが自我を持っている。無意識の思考は過去の記憶が引き金となる。思考の後には言動があり、これらが個性や性格となる。失敗ばかりが多い過去だと劣等感が強くなり、自信もなく積極性が失われ、成功が多いと前向きで積極的な考えになるなど。こういう理由で人間は同じ行動を繰り返し、同じ問題も起こす。

「私」という自我は過去の記憶→無意識で突発的な思考→感情→言動→性格→人生経験→過去の記憶、と繰り返す。この人生の繰り返しが終わるのが、無心となり意識として在ることが習慣化された時。

「あなたは誰ですか」と尋ねれば、私の名前は◯◯◯◯で、日本人の女性です、仕事は営業をしています、大卒です、忍耐力があります、怒りっぽいです、よく笑います、足は遅いです、昔はテニスをしてました、趣味は登山です、などの答えが返ってくる。これらは「私」の過去の記憶や経験を述べたもので、自我を説明している。これは本当の自分ではなく思考であり幻想で、人間の根源的姿である意識のことではない。

自我とは、思考で、欲望で、私という主張が強く、自分優先で、陰湿で、ドロっとして、粘り気があり、しつこくて、恨みがましく、嫌悪し、独裁的で、自己中心的で、醜(みにく)くて、下品で、厚かましく、頑固で、ずるく、恥知らずで、嘘つきで、無責任で、逃げ隠れし、足るを知らず、強欲で、傲慢で、人から奪い取り、損得勘定で、分け合わず、不公平で、不誠実で、うぬぼれ屋で、優越感で、被害妄想が強く、依存症で、期待し、失望し、暗くて、不幸で、苦しみで、黒くて、疑い深く、凶悪で、攻撃的で、威圧的で、脅迫し、押し付け、暴力的で、荒々しくて、意地悪で、いじめ体質で、浮き沈みが激しくて、うるさくて、落ち着きがなく、退屈が嫌いで、不安定で、散らかっていて、汚くて、混乱していて、無秩序で、排他的で、拒絶し、二極化で、派閥主義で、差別的で、束縛し、器が小さく、劣等感が強く、人見知りで、卑屈で、見栄っ張りで、プライドが高く、目立ちたがりで、恥ずかしがり屋で、承認欲求が強く、自分を大きく見せ、恐れていて、弱くて、みじめで、寂しくて、悲しみで、絶望で、挫折で、愛情がなく、快楽主義で、中毒症で、繊細で、傷つきやすく、あらゆる負のもの。

人間は意識という愛情を根底に持っていながら、自我の雲がその表面を覆い尽くしている。自我の雲が薄くなるにつれ、人は愛情ある言動が多くなる。

自我への囚われが強い人ほど、性格が悪くなる。囚われが薄い人ほど、性格が良くなる。

意識と自我について無知であると、問題と苦しみが生まれ続ける。

自分がいつも無意識に起こる思考に苦しんでいると気づくことで、自我から距離をとることができる。

自我への囚われが強いほど、人生の苦しみが強く多くなる。

自我に囚われると愚かな行為が増える。人が愚かに見える時は、自分のことだけ考えて行動している時。勉強ができる人でも愚かということがあり、勉強ができなくても清く正しいという人もいる。

欲望で行動する人は最終的に自滅する。

欲によって築き、欲によって潰す。

プライドが高いと、その鼻をへし折られる時がやって来る。プライドも「私」という自我。人生はいつかどこかで恥をかくようになっている。

欲が強い人ほど大きな痛みを経験して悪い習慣に気づく。欲が少ない人は小さな痛みで気づく。

人は自我があるため苦労を感じる。ただ苦労は奥深い人間性へと成長させるきっかけ。

自我があると深い悲しみを経験するが、それは他者への思いやりを育む。

自我があると挫折も絶望もする。人は絶望すると死の扉が目の前に見え、死ぬか耐えるかの選択に毎日迫られる。

絶望した時に見える景色がある。延々と続く灰色の雲、崖の淵に立つ自分、毒の沼に浸かっている自分、一人だけ深い穴に転げ落ちていく様子など。その時は一生治らないのではないかとも感じる。

絶望した時、そのことを話せる友人は少ない。絶望は絶望を経験した人としか共感し合えない。人は本当に苦しくなると人に話さない。

物事がうまく行っている時は自信もつき、やればできるという気分になる。誰かにするアドバイスも前向きになる。ただその波に乗れなくなった時、自我はいとも簡単に自信を失う。自信に依存した行動はもろい。自信のあるなしに囚われない平常心は、無心からやってくる。

人生で起こる出来事は、良いも悪いもなく中性のもの。それに意味をつけるのが思考で、過去の記憶が決める。

自我は敵や味方を分けるが、意識にそういった区別はない。

意識として在る時、思考はないので前向きも後ろ向きもない。前向きに見える行動も、裏には恐れや不安が隠れていることがある。意識として行動する時、恐れや不安はない。

自我は体より外側ばかりを見ているため、他人の言動はよく見ている。しかし自分の内面のことは見ていない。だから失敗しても他人のせいだと考える。よって学びと成長がない。無心になるとは内面を見ていること。自我への囚われが薄い人ほど、自分に原因があるのではないかと考える。つまり自分をよく見て反省し、学び、成長する。

抵抗は自我の反応の一つ。

人の性格を変えようとすると相手はそれを察する。すると相手の自我が負けまいと抵抗して頑固になる。

自我に囚われていると自分中心になり、誰かに迷惑をかけて注意されても自分が被害者と考え、非を認めない。よって相手の自我と戦っても意味がなく、ひたすら逃げるのが自我。

自我はなんとしてでも負けを認めず、なんとしてでも勝とうとする。

意識は直感や出来事を通じて人間や世界に働きかける。その働きは調和。その意識の中で、そんな働きがあることを知らずに、小さな範囲で獲得を求めるのが自我による欲望。その小さな欲望が、それをも含む無限に広がる意識に対抗しても、勝ることはできない。

人間の器が大きいというのはどれだけ自我に囚われず無心となり、他者への愛情を持っているか。器が小さいとは、他者を排除し「私」を優先する自我の強さ。

人から意見されて腹が立つのは、傷つけられた、自分を守りたいという自我の防衛本能。時にそれは器が小さいと言われる。感情的になる時は自分の自我に気づけ、自分が何にこだわっているのか見えやすい。意識として在る時は、批判されても気にせず反応しない。

「私」が傷つくこと、それは自我が恐れること。

自我に囚われていると、人の忠告を受け入れることは負けだと考える。自我が薄まると、忠告はありがたいと考えるようになる。

スポーツなど勝ち負けの世界で10代を育つと、大人になっても勝ち負けで人と接するクセが残る。ちょっとした話でも相手より勝ろうとする。それは付き合いにくくわずらわしい。そして本人はそのクセに気づいていない。

自我はいつも誰か攻撃する対象を作る。そして自分は相手よりマシだという優越感にひたり、相手が失脚するのを期待している。職場でも学校でも。

自我を理解し心を静かにしていると、他人の自我もよく見えてくる。

自我を知るほど、他者の言動の理由も見えてくる。

自我への囚われが強い者同士、囚われが薄い者同士、意識としてある者同志など、それぞれの言動パターンは似てくる。自我への囚われ度が近い者同士の付き合いが、それぞれ心地よいものとなり、友人などとして集まってくる。ただ自我が強いと争いが増え、自我が薄いと争いは少ない。

自我が強いと不誠実になる。不誠実な人はどんな綺麗な言葉を発しても、やがて自分の言動で本心がばれてしまう。言っていることとやっていることが食い違う。

思考はいつも物事の優劣、上下、善悪を判断する。子供はその傾向が薄いが、大人になるにつれて強くなる。

自我は接する人によって態度を変える。自我が強いほど人間関係を上下で見る傾向が強い。目上には媚びて目下には威張る。そのタイプ同士は居心地が良いので、よく似たタイプが集まってくる。このタイプがリーダーになると、周囲もそういうタイプが集まってくる。そして組織の風土もそうなる。

自我が強い人の人間関係はボス猿と子猿の関係で、ボス猿は子猿に威圧的に接し、子猿はボス猿に意見できず従順に従う。その子猿も下の子猿には威圧的に接し、下の子猿は上の子猿に意見できず従順に従う。この繰り返し。幸せと苦しみが表裏一体なように、サディズムとマゾヒズムも表裏一体で自我の性質。

下の子猿の自我は上の子猿に怒られたくないため、萎縮して自分の意見が言えない。それを見た上の子猿はいらだち、下の子猿を非難して改善を求める。ところが上の子猿の自我もボス猿に怒られるのが嫌で、自分の意見がはっきり言えない。それを見た下の子猿は「お前も俺と同じじゃないか」と思う。自我はいつも自分の内面より外側を見ているため、自己矛盾に気づきづらい。これも人間社会の組織で起こっている。

自我は相手の権威や実力など、大きく強そうに見えるものに弱い。自分が勝てない相手には萎縮し、イエスマンになる。反対に自我は優しいだけのリーダーを扱いやすいと感じ、下に見る傾向がある。自我が強い人と付き合っていくために、リーダーは誠実だけではなく実力がいる。

盲目的にリーダーの言うことを聞いたりリーダーに恐怖を感じるスタッフは、リーダーが誰かを雑に扱うと同じ態度をとりがちになる。反対にリーダーが誰かに尊敬を持って接すると、それも従う傾向にある。これは自信のなさ、恐れ、自己保身など自我から来る従順な行動。自我への囚われが薄い人は、リーダーが誰にどんな扱いをしようとも誰にでも愛情を持って接する。その人は恐れに囚われていないため。

弱々しい態度や自己主張できないことは、自我が薄いということではない。それらの裏には自信のなさや、嫌われたくないという自己保身、頑固さなどが隠れている。無心であると、これらに囚われない普通の態度となる。

自我は成功した人が手の届く範囲にいると妬み、手の届かない範囲にいると崇める。

大小の成功をすると、必ずどこかで誰かに妬まれる。もっと欲しいという自我を克服できていない社会では、誰もが不足感を感じている。よって好きなことをしていない人やうまくいっていない人にとっては、好きなことをしている人の話はまぶしく自慢話に聞こえることがある。

自我は損得を考えるため相手の前では笑顔で話し、その人がいなくなったら悪態をつく。こういうことを知らなければ人間不信になることもあるが、自我はこういう付き合いが普通なので気にしない方がよい。

人間が争うのは自我があるため。

人間嫌いの人は相手そのものではなく、相手の「私」という自我の言動を嫌っている。だから子供や動物は好きだったりする。思考力が発達していないものは邪気がない。

人見知りも自我。相手と何を喋っていいかわからない、相手にどう思われるか気になる、などはすべて思考。無心になるとそういう考えは浮かばず、積極的に話しかけることも消極的になることもなく、普通に話したり黙っていたりする。

会話が止まった時の沈黙に耐えられないというのは不安であり思考。無心になると気にする思考がない。

劣等感が強いとその反動で大きく見せたい、偉くなりたい、そう思われたいという動機から、何かを作り出す力が生まれることがある。事業を始めたり、権力や肩書きを求めたり、派手になるなど。

劣等感や妬みが強い人は普段の会話で相手に恥をかかせたり、気にしていることをあえて指摘することがある。すると自分が優位に立ったように感じる。その場は勝ったように錯覚しているが、長い目で見ると嫌われる。性格が悪ければ良好な人間関係も維持しづらく、どこへ行っても同じような人間関係が生まれる。

自我は自分自身に気になる部分があると、接した相手にも同じ場所を見る。自分と比較し、その優劣で自分を安心させたり、不安になったり、優越感にもひたる。体、持ち物、能力などで。自我は不完全な「私」に不安を感じる。無心には不完全な「私」というものがないので不安がない。

相手の劣等感や妬みなどの自我を指摘すると、相手が気づいて改善されることもあるが、逆恨みされることもある。それは関係性と状況による。

自我が強いと恨みや怒りが多い。特に自分が損させられたときは。

強烈な怒りや恐れに直面したら、腹部などに反応が出ることがある。ストレスで胃が痛いというような。そうなると無心になってもすぐにはおさまる気配がなく、集中力と忍耐が必要。怒っている自我を直視することが、怒りから離れるうえで効果的。怒りが長期に続くと病気につながる。

自我は他人の噂話や陰口を言う。大体その時は、自分に都合の良いように話を少し変え、相手を少しおとしめる言い方をする。そして聞く側は、その一次情報だけを聞いて話の全体像だと思ってしまうことがある。両者の言い分を聞かなければ公平ではない。ただ噂の本人が自我への囚われの薄い人の場合、言い訳も批判もせず事実だけを説明し、陰口を広めた相手と同じ土俵にのらない傾向にある。穏やかで清らかな人にとって、陰湿で下品な行為は選択肢にない。

あちこちで誰かの悪評を広める人は自我に振り回されている。よって自分を良く見せたり、誰かが落ちぶれることを期待している。よって真実を歪めて話す。自我の薄い人はそもそも人の陰口を言わず、悪評を広めることもしない。

誰かの陰口を言うと、それを聞いている人の中には「私のこともどこかで悪く言ってるんじゃないか」と思う人がいる。すると陰口好きに本音を言わなくなり、性格の良い人は距離をとり始める。

誰かに非難された時、言い返したり言い訳したくなる。そんな時も忍耐強く黙っていると、自我に振り回されない訓練になる。

自我は自分の非が誰かに明るみにされそうな時、怒り出しやすい。負けを認めない自我の抵抗。

小言の多い人が円満な関係を築けることは少ない。家庭でも職場でも。

人間は自我が薄まるほど自律する。よって相手への依存度がなくなってくるが、誰もが自我を持っているため依存心があり、人間関係に疲れてくる。そのため距離を考える必要がある。数ヶ月に1回しか会わないからうまくいく人間関係がある。毎日会ってるほうがうまくいく関係もある。毎日会ったとしても、1日2時間だけならうまくいく関係もあり、8時間になるとストレスになる関係もある。恋人とでも何日も一緒にいると、1人になりたくなる時がある。相手との相性によって会う頻度を考えた方が、人間関係の問題は減る。それは家族であっても、恋人や友人であっても。

依存度が高い関係ほど悪化しやすくなる。仕事でも人間関係でも。

人間は自分で人生を選択しているようで、実は過去の記憶に影響を受けた言動を無意識に繰り返している。よく浮気をされる女性は浮気しそうな男性をいつも選ぶ。借金をする男性は何回も借金する状況に陥る。

いじめをする人には共通点がある。それは「私」という自我が強い人。いじめをするほど自我に囚われている人は、暴力など攻撃的な行動をすることが多い。自分しか見えていないため、他人の痛みへの共感能力が低い。

自我が強い人ほど人の好き嫌いも多くなるため、組織の中では仲間はずれや分裂を引き起こす原因になる。

性格の悪い人は自分が嫌な性格だと気づいているが、なかなか自分を変えられない。それは日々無意識に起こる思考に、振り回されていることに気づいていないため。

自我は無視や絶交という極端に冷たい行動をとるが、反対に一度受け入れた相手には義理堅いという反対の面もある。意識はそのどちらにも囚われず、相手がどういう態度でも同じ愛情を示す。

突発的な思考によって言動が起こる。もしその内容が暴言や暴力であれば、接する相手にとっては辛いものとなる。この行動も過去の記憶が引き金となっている。それに気づかなければ、相手を傷つける行為も治らない。強烈な心の傷は、強烈な突発的思考によって簡単に心を占拠し、ネガティブな行動を起こさせる。

幼少期に親など周囲の愛情に恵まれなかったり差別や虐待を受けた子供は、やがて不良行為や反社会的行為を行い、周囲へ迷惑をかけることがある。本人は心の底に寂しさを抱えていて、誰かにかまって欲しくて迷惑行為をし、人の注意を引こうとする。例えば心の寂しさを埋めるため騒音を出し、誰かの気を引こうとする車やバイクでの暴走行為のような。そういった行動も過去の記憶が無意識の突発的な思考としてやってきて、その人の言動を決めている。迷惑行為が多いと周囲の恨みを買い、それにさらに反抗してと悪循環に陥る。これについても、無心になることは解決につながる。意識として在り、注意深く思考を観察し、過去の記憶が自動再生された時にはそれが一時的なものであると認識して、再び無心に戻る、ということを習慣化する。あとは本当に習慣化しようという本気の決意がいる。

自分を雑に扱う人は、他人からも雑に扱われる。自分を大事にしている人は、他人からも大事にされる。

普段から自信なさげにしていると、誰かからの指図や攻撃が増える。自我はいつも誰か攻撃する対象を探していて、自信なさげな人を雰囲気で感じとる。それはちょうどよい標的。結果を出さなければならない仕事やスポーツでは、自信なさげにしていると仲間から責められる。仲間の自我は、自分が負けることや損させられることを恐れる。自信過剰は油断を生むが、無心になると自信の有無に囚われない。

普通の日常では誰もが普通の言動で過ごしている。ところがある瞬間、思考が突発的に起こり、その人の過去の記憶が自動再生され、急に冷たい態度、攻撃的な態度や気分屋になったりする。やがてそれがおさまり普通に戻る。これが頻繁に起こると付き合う側は疲れる。

お酒を飲んで酔っ払うと、過去の記憶が自動再生されやすくなる。それにより酒乱や愚痴っぽくなったり、普段は表に出さない性欲が出てくる。すべて突発的な思考。

誰にでも自分で気づいていない思いグセがあり、突発的な思考は心の深い場所に刻まれていることがある。それは劣等感、トラウマ、妬み、恨み、自分の得だけを考えるなど。それに気づいていないとその行動は誰かに迷惑をかけ、評判も悪くなり、攻撃もされる。まず1日3分でも目をつぶって静かに座り、心に意識を向けることから始めてみる。すると色んな感情が起こってくるが、その一つ一つを観察し、それに振り回されていた自分に気づくことが第一歩。繰り返していけば、感情が起こるたびに気づくクセがつく。気づくとその瞬間思考が止まり、振り回されなくなる。そうして足を引っ張る思いグセは消えていく。

思考にいつも気をつけていないと振り回される。初期はいつも気をつけることを面倒に感じるが、習慣化してくれば無心の方が楽になる。

人間が自我に振り回されている間は、他者への攻撃を根絶するのは難しい。「私」というものがある限り自分を優先して守り、評価を高めようとする。自我が嫌な思いをすれば、相手への攻撃が始まる。攻撃の受け取り方によって、それがイジメかどうかが分かれる。イジメがよくないと広めることは良いが、自我への囚われが強い者にとってモラルは表面上の話に過ぎず、現場では自分が相手に勝つことを考える。いじめは中長期的に同じ場所で一緒にいなければいけない時に起こりやすい。そういったことを回避する環境を作った方が、イジメを回避できる。単発的な嫌がらせであれば、あの人には近づかないでおこうという教訓的な出来事になる。

自我が薄まるほど、本気で相手を負かしたいという気持ちや競争心もなくなってくる。勝たなければ意味がない、勝つ必要がある、と考えるのも執着であり自我。それが苦しみにもなる。

競争をしているように見えても、そこに勝ち負けにこだわる思考がなければ、じゃれ合いや楽しみ、適度な運動があるだけ。勝ち負けにこだわり始めると、苦しみと優越感という自我が生まれる。

絶頂期を迎えるということは、やがてそれが去った後の苦しみに直面するということ。もし執着するなら。

毎日無心にならなければならないも一つの執着。形に囚われずリラックスしてただ無心になる。

執着しないことに執着すると本末転倒。

無心が習慣化されても、瞬間的に恐れや苦しみの突発的な思考は起こる。しかし習慣化されているとその思考にすぐ気づき、ただ消えていくのを観察するようになる。

世に出始めた新しいことは批判が起こる。携帯電話もパソコンもインターネットも。批判の裏には恐れや不安、拒絶、過去への執着という思考がある。

物質的なものを追うことに良い悪いはなく、存分に得れば、それが自分を本質的な意味で幸せにしてくれるものではないことに気づける。

人はストレスがかかった時、自分について、原因について考え始める。すると自分の至らないところを直そうとしたり賢くなったりする。苦しみはさけたくなるが、正面から向き合えば成長につながる。

自我があるかぎり誰もが何かで苦しんでいると知っていると、相手への共感の気持ちと思いやりの心が芽生えてくる。それは一時的に起こる妬みや怒りの感情を抑える助けになる。

物など外部的なものに価値観を置いたまま結婚すると、精神的に苦しくなる。自分の時間がなくなる、自由に使えるお金がなくなる、相手の言動がストレスになる、仕事をやめられない束縛感、将来への不安。これらは自分より外側の事を求めるから苦しむ。ただ反対に、本質的な内面の価値に気づくための良いきっかけにもなる。

恋人でも結婚でも2人が意識として在ることを知らなければ、「私」を優先する自我が相手にあれやこれやを期待し始める。相手が期待に応えてくれなければ失望に変わる。自我が強いもの同士は期待も大きくなり、相手への不満も大きくなる。期待も失望も思考。自我の薄いもの同士は、相手への期待よりも思いやりが大きくなる。

自我は何に対しても「私」の喜びを考えて期待する。そして失望もする。

誰かに期待された時、それに答えなければ失望されるという恐れがあって動くことは、直感的ではなく自我の保身。ただ期待してくれる相手の善を思って行動することは愛情。

自我は静かにじっとしていることができない。何もすることがないと不安になる。だからいつも何かを考えて動きたがる。

自我は退屈や寂しさに耐えられず、携帯電話を見たり、友達に会ったりして気持ちを紛らわせる。これらの感情も思考から来るもので、無心になると消えていく。

もし突然体調を崩して入院すれば、不安な気持ちになる。そんな時に無心に取り組むと、頭の中が恐れという思考に占拠されていることに気づける。無心になれば恐れを客観的に見れる。楽しい気分にはなれないが、良い訓練になる。

無心になり意識として在る時、分割はない。思考して言葉や文章として表す時、分割が起こる。良い悪い、早い遅い、嬉しい悲しいなど。分割のない状態は思考のない状態。その説明として言葉は役に立つが、説明できるのはその入り口まで。

意識は思考がなくても在り続けるが、思考は意識がないと働かない。

日常生活で妄想することがある。妄想は思考で、何かを期待した物語、不安に関する物語などを作る。睡眠中に見る夢も、思考が日中に経験した出来事から作り出した物語や、直感的なものを見ているということがある。

何かを得る喜びは一時的。自我が強いほど、どれだけ得ても満足することはない。

思考力は道具。携帯電話と同じで使いこなせば便利だが、依存すれば振り回され中毒となる。

アルコール中毒、薬物依存症、ゲーム中毒などの中毒症も、過去の心地良かった、気持ちよかった、楽しかった記憶が無意識な思考として心を占拠し、その人の言動を支配する。だから何度も同じ行動を繰り返す。突発的な思考に無意識ということ。

お金の社会では自我の喜ぶものが売れる。刺激的なもの、中毒性のある物、スキャンダル。薄味よりも濃い味、甘い味。静かな人より喋り上手や面白い人。自然の風景よりもエンターテイメント、映画、ゲーム、格闘技、スポーツ。すべて五感を刺激し、それによって退屈しない。いつも何かを求める自我は喜ぶ。静かで動きがないものを自我は嫌う。ただうるさい場所で疲れた後、静かな所に出て穏やかさを感じることがある。それが意識として在る状態の心地よさ。

自我は常に何か刺激を求める。それに慣れていると無心になることは退屈に感じる。そうなると無心への真剣味は下がり、3日後には忘れている。

何かを見て記憶に残ると、ふとした時にそれを思い出す。それがわかりやすかったり、覚えやすいものであったり、中毒性のあるものならなおさら。それをいつも見ていると、親近感をおぼえる。突発的な思考に無意識であると、その思考に身体が反応する。すると物を買ったり、そこへ行ったりと行為をする。広告宣伝がわかりやすい例。

自我は競争で勝って利益を得るため、科学技術を発達させる。しかし科学が発達しても、人間の無心への取り組みが発達しなければ自滅する。

人は死を恐れて苦しむが、死がなかったとしても老いに苦しむ。そう考えると死の見え方が変わる。

物質はいつか必ず崩壊する。家も植物も体も太陽も。この世界で永遠と続くものは意識だけ。

夜、完全に眠りにつく瞬間まで無心を維持する。そうしてやがて訪れる死の練習をする。臨終の際に恐れや不安を感じるなら思考であり、体やこの世への執着。その時も最後まで意識として在る。

病気や老いで入院して自分が役立たずに感じても、新人看護師の練習台としては役に立っている。役立たずと感じるのも思考。

葉は始めは水々しくて柔らかく、やがて干からびて硬くなり散る。人間の体も若い時は水々しくて柔らかく、歳を取ると固くなって水気もなくなり、最後に死ぬ。心も素直で柔軟で前向きな人は自我の影響が薄く若く見られ、強情で聞く耳を持たず固定観念に縛られた人は自我の影響が強い。年老いても心の若い人はおり、若くてすでに老いたような人もいる。

赤ん坊は蜂が刺してくる知識がないため、蜂が飛んできても恐怖を抱かない。大人は蜂が刺すかもしれないことを知っており、それは痛く、恐怖で、とっさの防御反応として出る。つまり過去の記憶から来る思考と行動で自我の防御反応。蜂に刺されそうな赤ん坊を、母親が捨身で追い払おうとする行動は愛情からくる行動。つまり意識からくる直感的行動。

世の中を観察するとルールが見えてくる。例えば世のため人のためを思って行動すれば、その人は誰かから喜ばれ感謝される。反対に自己中心的な考えで行動すれば他人から嫌われる。人にプレゼントすればお返しをもらえ、人を殴れば殴り返されたり逮捕されたりする。つまり思考が前向きか後ろ向きかで、その後に起きる現象もそれに応じたものとなって返ってくる。

思考は良い思いで使えば良い結果が返ってくる。悪い思いで使えば悪い結果が返ってくる。

疲れている時、イラだっている時は何かしら問題が起こる。後ろ向きな思考は後ろ向きな出来事を生む。

そう見ると、殺人という行為はほとんどが自己都合、怒り、恨みの現れで、自我によって行われる自分中心の行為。自殺も問題から目を背け、苦しみから逃れたいという後ろ向きで自己中心的な思考から来る。さらに自殺した人の家族も、それによって苦しむ。自殺も殺人も、多くが「私」を優先した思考から行われる。その後ろ向きの考えは自分へ返ってくるということ。

自我の視点で見れば「私」の人生。意識として在ると、「私」も「私の人生」もない。唯一である意識は「私」の誕生前からあり、誕生後もあり、死んだ後もある。意識として在るとき、生死を超越する。

無心になり意識として行動する時、良い悪い、好意悪意といった価値観から自由になり、ただ直感による行動がある。それは自我である思考の束縛から抜け出すこと。つまり根源としての意識に帰るまでは、何かしらの執着によって自我のある人間として生まれてくることになる。だから生命が存在する。この観点で考えると自殺をしても再び生まれてきて、自殺した時と同じ苦しみが、結局自分に帰ってくるということになる。

自我がある限り問題と苦しみが生じる。その苦しみは自我に気づかせるきっかけで、敵ではない。攻撃、妬み、恨み、劣等感、執着心などの感情は苦しみを生み出すが、その出来事は自我に気づくためのきっかけ。過去に克服できていない感情があれば、それを克服するための出来事が起こる。

自分が自我に囚われていたことに気づくと、人間の歴史は自我に囚われてきた歴史ということが見えてくる。



組織とリーダー



誠実な人が多くなるほど組織の動きは調和し、友好的で雰囲気も良くなる。誠実とは自我への囚われの薄い人、もしくは意識として在る人が見せる性質。反対に自我の強い人が組織に多くなると非協力的になり、動きは調和せず、不和も増える。

人々は争いや戦争を好まない。もし争いになれば、自我は相手に勝って自分たちは無事でありたいと考える。相手も同じことを考えている。だからやはり争いそのものが起こらない方が良い。そのためには内面に争いがない人物をリーダーに選ぶ必要がある。それもあらゆる場所、段階で。そうでなければ自我の強いリーダーが現れ、自分たちの無事を優先して争いを始める。それは周囲への不安を生み出し、武装する人々が増え、緊張が高まり、争いが大きくなる。この悪循環を世界中の人が知ることが、良いリーダー選出の第一歩となる。

国民は軍隊を自国と自国民を守る組織だと考える。しかしその国のリーダーが独裁者のように自我への囚われの強い人物の場合、軍隊は国民に脅威を与える存在になる。例えば政策に逆らえば逮捕したり銃撃したりと。つまり自分たちを守るための軍隊は、自分たちを脅かす存在にもなる。だから軍隊そのものを持たない方が良い。

自我が強い独裁者がリーダーになると自分の得のために動き、人民の意見は無視する。意識として在る者がリーダーになると全体の善のために動き、人民の意見を尊重する。それ以外のリーダーは、この間に位置する。

仕事ができる、頭が良い、積極的に動ける、声が大きく強そう、口が達者、目立つ、怒らせたら怖そう、などの性質を持つ人がいる。組織の中では自然とリーダーに選ばれることもある。ただこれらの要素の前に、その人に誠実さがあるかどうかを見る。それによってリーダーの決定が全員のために良いものなのか、一部の人にとっては良いのかが決まる。誠実で頭が良いリーダーが目の前の富を分配する時、様々なことを考慮して全体の善を前提に公平な分配を目指す。不誠実だが頭が良いリーダーが分配すれば、自分とその近しい人だけがいかに得できるかで分配する。誠実なリーダーが叱る時は、相手の成長を思って叱る。不誠実なリーダーが叱る時は、自分の言う通りにしなかったことへの恨みとしてや、今後自分が損させられないようにと叱る。

仕事ができるという理由でリーダーにすると、そのグループのスタッフが苦しむことがある。リーダーに人のことを思いやる誠実さと愛情がないと、できない人への攻撃が始まる。

リーダーが判断をする時に、自我が入るほど適正な判断から遠のいていく。例えば怒り、恨み、劣等感、個人的な利益など。

やられたらやり返すというリーダーは、リーダーにふさわしくない。目の前の問題は沈静化しても相手の恨みは残り、その仕返しは1年後、10年後、50年後かもしれない。

この人に逆らったら仕返しされそうと感じさせる人をリーダーに選んではならない。またそういうリーダーを選ぶ人は恐れからで、偏った視点で判断している。

リーダーが不誠実なら、その組織は居心地の良いものにはならない。

性格の悪い人は嫌われ、性格の良い人は好かれる。人は性格の悪い人が仕切る組織には属したくない。だから性格の良い人をリーダーにする必要がある。性格の良い人とは自我への囚われが薄く、意識として在る人のこと。

リーダーが粗野であると、粗野ではないスタッフはそのグループに属していることを恥に感じる。特に他人に知られた時は。

リーダーには肩書きよりも信用が必要。信用を得るには誠実さと実力。信用があれば、肩書きがなくてもスタッフは信頼して話を聞き動く。肩書きだけでは、スタッフはとりあえず表面上は従っているように装う。

立候補制でリーダーを選ぶと自我の強い者が出てくる。その中には人から尊敬されたいや、地位と名誉を求める欲深い者、小利口な者が出てくる。そしてその組織に属する人は、その組織が嫌いになる。

どんなに愛想が良く世間の評判が良い人でも、毎日一緒に過ごしている周囲の人は性格を見破っている。それは家庭でも職場でも。社会のリーダーを選ぶにはこの目線が必要になる。

自らリーダーになろうとする者よりも、私生活の態度を知っている周囲に推薦される誠実なリーダーの方が、平和な社会を築くには適している。

日頃から無心になり意識として在ることに取り組んでいると、欲は限りなくなくなっていく。よって自ら手を上げてリーダーになろうとはしない。だから周囲が推薦する必要が出てくる。そういうリーダーは内面に争いがないので誰とも争わず、平和な社会を築ける。

若いスタッフほど、自分の仕事での向き不向きを把握していることが少ない。そのためリーダーはその仕事ぶりを観察し、雑談などから性格的な特徴を聞き出す。関心を持って理解しようとするのは愛情。愛情は意識の性質そのもの。

アドバイスをしなくてもただ話を聞いて共感するだけで、スタッフはリーダーを信頼し始める。話を聞き共感するというのは、相手を否定せず受け入れようとする愛情から来る。

人は自分の体験を誰かに共感してもらえると、大きな喜びを感じる。反対に誰かに共感するということは、相手に喜びと力を与えている。

リーダーが追い詰めるような話し方をすると、息苦しくなったスタッフは離れていく。追い詰める時、相手に恐れを感じさせてコントロールしようとしている。つまり自我からくる言動のため破滅に向かう。ただこれを逆手にとって、相手の成長を促す人もいる。その場合もきつくいった後は優しく気づかうなど、バランスをとっている。

スタッフからのアイデアをリーダーが否定すると、誰も案を出さなくなってくる。

リーダー自身が、話し方、接し方、頼み方、助け方を愛情、尊敬、感謝を含んだ前向きなものに変えると、スタッフの動きが変わる。

リーダーはスタッフにとって耳の痛いことを言わなければならないが、それもたまににしないと、小うるさいだけになる。小うるさい人も相手のためを思って言っているが、相手の自我はその指摘を非難と感じ、抵抗して非協力的になるか攻撃的になる。

人へのアドバイスは前向きな言葉をかける時もあれば、厳しい言葉、悲観的な見解を伝えるほうが伝わることもある。通常はポジティブ8割、ネガティブ2割を基本とし、時期や相手によってその割合を逆転するバランスが良い。厳しさが多いと人は離れていく。

熟練者が初心者の取り組みを見れば、何が良くて悪いのかは大体すぐわかる。その時その場ですぐ指摘するより、その場では我慢した方が良い。毎回すぐに指摘が入ると、やってる方の自我は恐怖を感じ、思い切った行動ができなくなる。後で落ち着いた時に少ない回数でアドバイスする方が、相手も受け取りやすく萎縮しない。

プライドが高く、耳がふさがっている人へアドバイスしても届かない。だから本人が失敗して恥をかくまで待つしかない。その時やっと、周囲の意見に耳を傾ける兆しが見える。閉じた耳を無理に開けようとすれば、自我はさらに頑固になる。ただプライドが高い人であっても、愛情を持って話を聞き続けてくれる人へは信頼を高め、意見に耳を傾けることがある。そういった意味で意識として在る人ほど、頑固な人の心を柔らかくしやすい。

苦手な作業をしている人に厳しく指導しても優しく指導しても、改善はほとんど見られない。ただ優しく教えた方が、わずかだが改善されることがある。失敗を責めなかったことや協力してくれたことに対して報いようとするため。愛情を持って接することが基本となる。

仕事でミスの多い人へは適材適所を見直すほうが良い。怒ってもやめるだけになる。適材適所で配置すると、問題はその人ではなかったことに気づく。新しい仕事が天職、適職に近いものほど直感が冴えてくるので、能力も発揮される。苦手なことをする時、直感に恵まれない。

自我が薄く、誠実で仕事ができる人、理解力の高い人、意欲のある人、きっちりしている人、我欲を自制できる人、仲間を思いやる人など、これらのスタッフとは仕事がやりやすい。リーダーが多少しっかりしていなくても助けてくれる。これとは反対に、自我が強く誠実性の低い人との仕事は苦労が絶えない。その分リーダーは頭を使う。すると具体的な対応策が知恵となって身につく。リーダーを育てるには、後者の組織を任せるのが効果的。苦労と見れば苦しいが、成長や気づきのきっかけと考えると悪いものではなくなってくる。

組織では、リーダーからの指示でも仕事をきっちりしない人もいる。その時は誰かと組ませてみる。仕事をきっちりしない人にも、信頼して安心できる仲の良い人がいたりする。この人と組ませると、相手との信頼や関係を壊したくないからきっちりしようとする。自我は信用していない人を敵対視するが、信用している人からは嫌われたくないと思う。

欲が強く自分の取り分の要求が強い人には、成功報酬型が適している。自我は自分のためなら大きな力を出せる。このタイプが組織で働くと、成果が出ない時に誰かのせいにしがちで、陰湿な空気が組織に生まれやすい。言い訳できない状況に置くことが適している。

組織もリーダーも、無心になり意識として在ることを基本とするものは調和へと向かう。

お金の社会


政治、経済、教育、福祉、医療、科学、娯楽など、あらゆる業界はお互いに影響し合っている。その中で起こる問題はほぼすべて、直接的、間接的にお金と関係している。その理由はこれらの業界の大外には「お金」という大枠があるため。この大枠を出た脱貨幣社会に解決策がある。

裸で野原やジャングルで生活していた人間が宇宙へロケットを飛ばし、インターネットで国際交流をするまでに科学を発展させるには、お金の社会というのは効果的だった。それによりもっと得たいという自我が刺激され、競争と戦争が生まれ、技術、知性、組織が発達し、便利にもなった。ただその科学技術は地球環境に悪影響を与え、滅亡させるところまでやってきた。

お金の社会では、お金がほしいという欲がある経営者の方が事業を成功させやすい。意識として在る人に、そこまでの欲はない。お金の社会でお金を持つことは権力を持つことでもあるが、お金を奪い合うという争いを基本としているため、平和な社会を築くことはできない。お金を得る必要がない社会を築く時、意識として在る人々がリーダーとして表に出やすくなり、争いがなく自然環境を守る社会が築かれる。

お金の社会では、頭の良さは良い学歴に直結し、良い学歴は良い会社への就職や安定した高い給与へとつながり、国にとっては他国との競争に勝つための人材育成へとつながる。お金を基準として社会の仕組みが形作られている。この仕組みは獲得を前提としていて、意識として在るという本質的なことを基準とはしていない。

お金の社会では人間の欲望が増大するため、価値観が獲得に大きく傾く。お金の獲得、物の獲得、役職の獲得、名声の獲得、人の獲得、技術の獲得。獲得で喜ぶのは「私」という自我。自我は自然の循環が補える以上の資源を食い潰す。意識として在る時、獲得という欲は薄れ、自然の循環内の必要最低限の獲得のみとなる。

お金の社会では自我の止まない欲は物をもっと作り、もっと売り、その分天然資源は使い続けられ、ゴミも増え続ける。経済成長はこれの繰り返し。経済成長に反比例して、自然環境は破壊されていく。

もっともっとと求めるお金の社会は自我を強め、無心から遠ざける。そうして道徳も節度も薄れる。

ルールを細かく増やしても、それをかいくぐる者が出てくる。特にお金への欲が絡むと。

薄味の食事に慣れると、貨幣社会の食べ物がいかに濃い味付けかがわかる。刺激は人を中毒にさせる。中毒にさせると儲けられる。病人も増える。中毒になるのも自我。

お金の社会はお金の奪い合いの社会。だから勝つ者と負ける者が生まれる。こうして路上生活者や低所得者は、何百年と世界中で存在し続けている。お金の社会とは、みんなが普通以上の生活ができる仕組みではなく、不公平になる仕組み。それはお金を稼ぐことが上手い人が勝つゲームで、一部の大富豪がお金を独占し、大多数の人々が低所得者になる仕組み。

お金の社会の過集中は効率的に利益を生み出しやすいが弱さもあり、災害などをきっかけに問題になる。都市への人口集中、一ヶ所での大量生産、収入源が一つの会社から、デジタル機器頼みなど。利益を追い求めない脱貨幣社会を築いた時、人口分布も農業も製造も分散型の社会が築かれる。

いつも伸び伸びして陽気だった20歳前後の若者が、ある時期から暗くなる。それは就職した日から。

気の合わない人と毎日何時間も顔を合わせることになる。だからストレスになる。それが職場。

仕事を早く終わらせてぼーっとしていると、サボっているように見られる。だから仕事をしているふりが多くなる。それが職場。

集中し始めた途端に話しかけられる場所。それが職場。

1人だけ定時に帰ると非難される不安があるため、1〜2時間くらいのサービス残業をさせてられてしまう場所、それが職場。

男は収入が低いことを恥に感じる傾向にある。「私」である自我は、収入の低さを能力の低さと感じ、負けと感じる。

お金の社会では初対面の人に自己紹介する時、自分の仕事や役職を伝えることがある。それほど仕事は自分を表すものとなっている。だから無職だと、どこか問題のある人と見られがち。しかし世界中のほとんどの人は、できれば働きたくないと思っている。

自己紹介で職種や役職を伝えるというのは、自我である過去の記憶、経歴の説明をしている。つまり本来の姿の意識のことではない。学生、アルバイト、フリーター、サラリーマン、経営者、政治家というように、自我に囚われるというのは過去の記憶を演じること。その自我は損得関係や上下関係を築く。すると真の友情は芽生えづらく、一時的な仕事上の付き合いになる。意識として在る関係は幼少期から10代までに築いた友情のように、上下や損得がない。

天職、適職であっても、人気のないものやお金にならないものがある。すると生活できず継続が難しくなる。そういった意味で、お金の社会は人間の表現の幅をせまくする。

生活費を稼ぐために毎日朝から晩まで働いて、頑張っていればいつか良いことがあると漠然と考えている人は、労働信仰に陥っている。それも常識という過去の記憶からくる思考。

1人になる時間がなくなる。友達と遊ぶ時間がなくなる。自由に使えるお金がなくなる。その割に仕事のストレスと家庭への不安が増える。それがお金の社会での結婚。

生まれ、学校に行き、バイトをし、就職し、結婚し、子供を持ち、昇進し、子供が成人し、定年退職し、年金をもらい、寿命がくる。自我はお金の社会の常識で生き、死は年老いてから訪れるものだと漠然と思っている。しかし死にかける体験をすると、死はいつでもすぐ隣にあることを知る。いつ死んでもおかしくないと死を意識して生きると、人生の優先順位、真剣味が変わる。


紹介

自我、無心、意識として在ることは人間の性質で宗教とは無関係だが、これらの説明は古代から宗教の領域に存在している。ヒンドゥー教や仏教、禅では、無心や意識として在ることの習慣化を悟りや解脱(げだつ)と言い、生と死を繰り返す輪廻(りんね)の終わりとしている。それは自我と思考の終わりで、人間として生まれてくることの終わり。自我は過去の記憶の集まりで、過去世で克服できなかった自我も含み、それをカルマと言い、運命とも言う。このカルマが人間の思考の原因で、言動につながり、苦しみと一時的な喜びにつながる。

次に紹介するのは「無心」と「意識として在る」について述べている本で、古代から現代までのもの。古代ギリシャ哲学、ヒンドゥー教、仏教、禅、古代中国で見られる。無心や意識について多角的な視点で学ぶことで、より理解を深めることができる。その知識は実践することで身に付く。

・アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話

「そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。それは何も新しい状態ではない。それが根源的な、生命そのものである基本的存在、そしてまた愛と喜びであることが直ちに意識されるだろう。」

「すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存在するのだ。」

・あなたの世界の終わり―「目覚め」とその“あと"のプロセス / アジャシャンティ

「憎しみ、妬み、嫉妬、強欲、非難、恥、そして残りのすべてといった感情的分離感は、分離の状態から認識している。」

「私はそういったベタベタした思考やしがみつきの瞬間が、人間のシステムの中で二度と起こらないというような状態があるのかどうか、わかりません。(中略) ある地点になると、ベタベタ思考が起こることと、それが消えることの間があまりに小さいので、起こることとその消滅はほとんど同時であるということです。」

・ウパデーシャ・サーハスリー / シャンカラ

「生と死の川の中に落ちたものは、知識以外の何者によっても、そこから自分自身を救うことはできない。」

「虚空(こくう)のような、無身の境地が、充分に研究された聖典と推論にしたがって述べられた。もし人が、『私の』『私』というこの観念をすっかり捨てて、この境地に対して確信を持つにいたれば、解脱する。」



・ウパニシャッド

「知識の五つの器官が意(い"心")とともに静止するとき、理性もまた動かないとき、それを人々は最高の状態と呼ぶ。感官を動かさず静止させることがヨーガであると、かれらは理解する。そのとき、人は心を集中しうる。ヨーガとは実に起源であり、没入(ぼつにゅう)である。それは、言葉によっても、意思によっても、また眼によっても、得ることはできない。『それは存在する』という以外に、どうしてそれが理解されよう。」

・覚醒の炎 プンジャジの教え

「『私は身体だ』と考える代わりに『私は意識だ』と自分に言いなさい。この二つのうち一つを選びなさい。そのどちらであなたは人生を生きるのか?自我か、意識か?人生においてあらゆることを行うには、意識が必要とされる。あなたは自我が人生をとりしきり、自我が決定したことを行動に移すと考えている。これが無知と呼ばれるものだ。」

「意識が命令するままに身体を行為させなさい。あなたは単なる道具でしかないことを知りなさい。もし『身体は私のものだ』などと主張せず、意識の中で意識として生きるなら、あなたは本当に自由な生を生きることだろう。」

「ヨーガとは、心のはたらきを止滅することである。その時、見る者は本来の姿にとどまる。」

・菜根譚 / 洪 自誠

「器は水を一ぱいに満たすと覆(くつがえ)り、撲満(貯金箱のようなもの)は中が空である間はその全形を保っている。故に君子というものは、心は無心の境地においても、物欲に満ちた有心の境におかない方がよく、身は不足がちの境遇におっても、満ち足りた境遇におらない方がよい。」

・信心銘(しんじんめい) 


・ニュー・アース 意識が変わる 世界が変わる/エックハルト・トール

「人生で出会う静寂に意識的になると、自分自身のなかの形も時間もない次元、思考やエゴを超えた部分と触れ合うことができる。それは自然界に充満している静寂かもしれず、早朝の自室に広がる静寂、あるいは音がふと途絶えたときの静寂かもしれない。静寂には形はない。だから思考を通じて静寂に気づくことはできない。思考は形だ。静寂に気づくとは、静かに停止しているということだ。静かに停止しているとは、思考抜きの意識でいることだ。静かに停止しているときほど、深い本質的な自分自身でいるときはない。静かに停止しているとき、あなたは一時的に個人という心理的、精神的な形をとる前の自分になる。静かに停止しているとき、あなたは一時的な存在を超えた存在になる。無条件の、形のない、永遠の意識になる。」

・パイドン / プラトン


「魂は、なにかを考察する際に、視覚なり、聴覚なり、なにか他の感覚なりを通して、肉体の助けを借りる場合、(というのは、感覚を通してなにかを考察するということは、肉体を通して考察することに他ならないのだから)その時、魂は肉体によって一時も同じ有り方を保たないものの方へと引きずり込まれ、それ自身が彷徨い、混乱し、酔ったようになって目眩(めまい)を覚えるのだ。(中略)だが、魂が自分自身だけで考察する時には、魂は、かなたの世界へと、すなわち、純粋で、永遠で、不死で、同じように有るものの方へと、赴くのである。そして、魂はそのようなものと親族なのだから、魂が純粋に自分自身だけになり、また、なりうる場合には、常にそのようなものと関わり、さまようことを止め、かの永遠的なものと関わりながら、いつも恒常的な同一の有り方を保つのである。なぜなら、魂はそういうものに触れるからである。そして、魂のこの状態こそが知恵(フロネーシス)と呼ばれるのではないか」

・バガヴァッド・ギーター


「海に水が流れこむ時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。欲望を求める者はそれに達しない。すべての欲望を捨て、願望なく、『私のもの』という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。」

・ブッダのことば -スッタニパータ-

「ウダヤよ。愛欲と憂(うれ)いとの両者を捨てて去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨(かいこん)をやめること、平静な心がまえと念(おも)いの清らかさ、それらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたしは説く。」

「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が止滅するのである。」



・ブッダの真理のことば・感興のことば

「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。

来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没(ぼっ)することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。それが苦しみの終滅であると説かれる。水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。」

「瞑想とは一つの想念だけを想い続けることです。その一つの想念が他のすべての想念を遠ざけます。心の散漫は精神力の弱さの兆候です。たゆみなく瞑想を続けることによって心は力を得ていきます。つまり移り変わりやすい心の弱さが、その背後にある恒久的な無心状態に場を明け渡すのです。この無心の広がりが真我です。純粋な心が真我なのです。」

・臨済録

「『汝がもし聖(知徳にすぐれ、尊敬される人)を愛し凡(普通。ありふれた)を憎んだならば、永遠に迷いの海に浮き沈みするであろう。煩悩は心によって生じる。無心であれば煩悩の拘束もない。姿かたちを弁別(区別すること)する要もなく、するりと一発で道を体得できる』わけだ。」

・老子

「心をできるかぎり空虚にし、しっかりと静かな気持ちを守っていく。すると、万物は、あまねく生成変化しているが、わたしには、それらが道に復帰するさまが見てとれる。そもそも、万物はさかんに生成の活動をしながら、それぞれその根元に復帰するのだ。」

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